No.0045 労働 労働及産業:改題

大正11年~13年
原本11~13巻 揃 28冊
¥560,000

コレクション写真

コレクション解説

概要
関東大震災前後の為原本は稀有。並列表記11巻10号~13巻16号(134~161号)160号欠号で有るが157号二重表記少破れ有
日本労働総同盟
大正元年八月一日鈴木文治を中心に15人の会員を以って友愛会が組織された。11月から機関紙【友愛新報】を発行した。友愛会の綱領は
*我等は互いに親睦し,一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せん事を期す、
*我等は公共の理想に従い,識見の開発,徳性の涵養,技術の進歩を図らん事を期す。
*我等は共同の力により着実なる方法で我等の地位の改善を図らん事を期す。
友愛会は創立一周年にして会員は1400に増加し,大正二年七月の神奈川の日蓄争議を皮切りにストライキにも成功した。大正6年には組合員二万を超え,従来の地域的,一般組合組織を改めて産業別編成を行った。紡績組合・東京鉄工組合が組織された。大正8~9年は日本における労働攻勢時代であった。小石川砲兵工廠・都下15新聞の総罷工・東京市電怠業罷工・神戸の怠業罷工・芝浦怠業・東京園池罷工・八幡製鉄所罷工・大電・藤永田・三菱大罷工等友愛会はこの間において指導的組合としてよく闘争し,8年の第7回大会に於いては,会名を日本労働総同盟と改め闘争的新綱領を採用した。大正10・11年において総聯合運動が起こったが中央集権派と自由聯合派との衝突において決裂した。総同盟は中央集権派の中心勢力であった。12年において総同盟は会員3万を数えた。しかし, 総同盟の内部においては,指導原理に2つの潮流を生じた。大正11年の震災後いよいよ明らかになってきた。一つは組合主義の幹部派で,二は社会主義の非幹部派であった。総同盟十三年度大会は,かの現実主義の宣言と称せられる大会宣言を発表した。下記の一句を全精神とするものである。
【今や我等は,過去におけるよりも,その政策をより現実化し積極化なさねばならぬ必要に迫られている。その必要は最近における我国資本主義の示しつつある傾向と労働階級の勢力の拡大を我等が正確に観察する事を得たからである。我国の労働組合運動は少数者の運動から転じて大衆的運動に向かうべき段階に到達したのである。改良的政策に対する従来の消極的態度は積極的態度に改められねばならない。例えばブルジョア議会によって労働階級の根本的解放を期待ことはないが,普選実施後においては選挙権を有効に行使する事で,政治上の部分的利益を獲得すると共に,無産階級の政治的自覚を促し、亦国際労働会議に就ても此れが対策を慎重に考慮し、我国労働組合発展の為に計るべきである】と 中略
その後総同盟は昭和2年度の総同盟に4名の代議士を獲得した社民党の旗の下に国際労働会議を中心に日本海員組合・官業同盟・海運聯盟と提携して大右翼結成の下に進んだが、昭和4年末において戦線統一と大阪事件(西尾・鈴木の資本家との取引事件)参謀本部事件(幹部と参謀本部の取引事件)に顕われたる幹部の御用組合的労資協調主義の問題で第三次分裂がおき、大阪の6000と東京の1000が総同盟、社民党を脱して全国労働組合同盟、全国民衆党を結成し日本大衆党と提携しつつ有る。昭和5年の第二次普選に鈴木・松岡は惨敗し総同盟は第4次 分裂の危機にさらされている。
白揚社版:社会科学小辞典:昭和5年発行より。