No.0043 直言=週刊平民新聞改題

明治38年
平民社原本A3版 2巻 1~32号 揃
¥640,000

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コレクション解説

平民社
明治36年、日露の戦雲が低迷して、国民はあげて主戦熱に狂酔した。この時幸徳、堺等の社会主義者を編集部に有した萬朝報のみが独り非戦論を唱えていた。しかし同年10月開戦の形勢の逼迫と共に、萬朝報も主戦論に傾いた。幸徳、堺等は退社し11月麹町有楽町に平民社を興し、週刊【平民新聞】を発行した。その標語は【 自由・平等・博愛】【階級打破】【生産機関社会化】【平和主義】であった。
平民社は平民新聞において非戦論を主張すると共に労働者組織の参謀部の役割を務めた。隔月に社会主義大演説会、毎月数回の小演説会、月1回の婦人講演会、毎週1回の社会主義研究会を組織し亦多くのパンフレット、リフレットを出版し地方遊説隊、宣伝行商隊を派遣し37年7月に於いて平民新聞の直接購読者は1400名となり、平民社の影響の下に全国に無数の社会主義団が組織された。
主なるものは【早稲田社会学会・横濱平民社・下関社会主義研究会・神戸平民クラブ・土佐平民クラブ・丸亀平民党・北総平民クラブ・福岡平民新聞読書会・大阪同志会・岡山いろは倶楽部・等であった。平民社の運動は白熱化していくと共に、官憲の圧迫は刻烈を加えていき、発売禁止、投獄が続いた。遂に明治38年1月に発行停止の判決を受けたのでその執行前に64号を終刊号として自ら廃刊した。平民社はそのまま運動を継続し、やがて2月から【 直言 】を発行した。圧迫は依然として相次ぎ、遂に9月に発行停止を命じられ32号を以って終わった。平民社は既に甚だしき財政難に陥っていたし、内部に唯心論と唯物論との闘争があったので解散する事となった。明治39年2月に組織された日本社会党の機関紙【日刊平民新聞】の発行所として平民社は再び世に出た。明治40年1月に創刊されたが、2月23日に日本社会党は解散を命じられ、日刊平民新聞は禁止と投獄の洪水に襲われ4月下旬廃刊し、平民社も解体した。
平民新聞
幸徳秋水・堺俊彦の設立した平民社が1903年【明治36年】に創刊した社会主義週間新聞=1巻。明治38年廃刊。以降【直言】として 32号まで発行・廃刊。明治40年日刊として再刊したが、政府の弾圧により三ヶ月で廃刊。その後、日刊の無産者の新聞を見ない。
この年
足尾銅山・幌内坑山・別子銅山に暴動が勃こり軍隊が出動す。 日米旅券条約